いじめに関して思うこと。いじめは悪魔の犯罪である。そしていじめられている君へ。 - 生活全般
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いじめに関して思うこと。いじめは悪魔の犯罪である。そしていじめられている君へ。

2012/09/14 編集
生活全般




最近、大津いじめ自殺や札幌市でのいじめによる自殺など、いじめによる自殺が後を絶ちません。

過去に中学・高校といじめを受けた体験者として語っておきたいことがあります。書こうかどうか迷いましたがもう黙っていられません。

自分は、いじめは悪魔の犯罪だと思っています。世間は「いじめ」というひらがな3文字で軽い感じを与えていますが、実際は暴力、傷害、恐喝といったれっきとした犯罪行為なんです。血の通わない、悪魔の所業がいじめなんです。

この体験談およびいじめに対する考え方を見ていただくことで、現在、いじめに悩んでいる学生の皆さん、いじめに遭っているお子さんをお持ちの親御さんに少しでも何か伝わることがあればと思います。体験談は、読みやすいように小説風の文体で書いておりますので、ご了承ください。

記事の最後にはいじめに関して役立つリンク集も入れておきましたので、解決への一歩となるようにお祈りしております。

自分のような人をもう二度と出したくないという気持ちを込めて。

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中学校でのいじめ


自分は中学・高校といじめられていたことがある。中学校3年間、目を付けられいて、毎日「死にたい」とばかり考えていた。

相手は関西弁を使う荒っぽい男子だった。一言で言うなら「チンピラ」。そんな表現が当てはまった。大阪から引っ越してきたその男子は、一見するとワルではないように見えたが、キレると手がつけられなくなる、そんな感じだった。

主犯は(自分にとって)彼だったが、周りには彼に勝るとも劣らないワルが何人かいた。
暴走族だとかそういう類の人種ではなく、クラスの中でワルを気取っている感じ。一言で言うなら「サル山の大将」だった。

担任が女性だったことも彼らが暴走する要因だったように思う。「ババア」呼ばわりしたり、言うことを聞かなかったりし、担任が泣いて教室を出て行くこともあった。今で言う「学級崩壊」だった。

そもそも学校の環境が最悪だった。授業中、上級生階ではバクチクが教室に投げ込まれ、廊下が煙だらけになり、教師たちが犯人探しに奔走するなか、上級生の不良グループは窓から飛び降りて逃げるなんてことが日常茶飯事だった。

下校時間になると、学校の正面玄関には暴走族がたむろし始め、グループに引き入れようとする学生を品定めし、授業中でもエンジン音が外で鳴り響くような環境。学校帰りには下級生を待ち構える上級生の不良グループが近くの公園にいる状況だった。

自分をいじめていたグループの中には、そんな暴走族連中と交流があった者もいたし、夜中、学校近くの公園で頻繁にたむろしているような連中だった。住む世界そのものが違っていた。

そういう人間が多く集まるなかで「気が弱い」人間というのは格好の標的になる。自分はそういう人間たちから目を付けられる存在だったようだ。いくらやられてもやり返さない、愛想笑いをして言い返さない、やり返さなかったことが彼らのいじめ精神に火に油を注いでいたようにも思う。

例を挙げると、教室に主犯の男子が入ってきた。運悪く、彼とぶつかってしまった。

「あっ・・!悪い・・!」

その言葉を発した瞬間、彼は思い切り傍にあったイスを蹴り上げた。この一件が決定的となり、自分は彼に対して口が開けない恐怖感で一杯になっていった。まさに「蛇に睨まれた蛙」だった。


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やり返せない


「なぜ言い返さないんだ(やり返さないんだ)」と思った人もいるだろう。


できるわけがない。

日常的になっていた集団いじめ。そんな場で反抗したら、ますますいじめがひどくなる。よく聞くパターンだとしか思わない人もいるかもしれない。だがこれが現状なのだ。いじめられている人の大半は

「これ以上ひどくならないように、刺激しないようにしなきゃ」


とばかり思う。その結果が愛想笑いだったり、いじめられていても「いじられている」ような錯覚を周りに与えようとする。これは防衛本能だ。

自分の命を守ろうとする、人間の本能的行動がそうさせるのだ。本人だけではどうしようもない。

「いやいや、俺はふざけてるだけだから(でも誰か気づいてくれ!助けてくれ!)」


これがいじめを受けている側の本音だ。

当時は「逃げるが勝ち」と思っていて、とにかく逃げていた。彼らが廊下の向こうに姿を見せるとトイレに隠れたり、図書室の本棚の隙間に隠れたりしていた。休み時間は自分にとって地獄だった。彼らに席を立つ時間を学校が与えてしまうからだ。移動教室の時間も最高に嫌だった。移動している間にいじめられる。奴らが動けばいじめが起こる。

こんなことがあった。

美術の時間、終わった終わったと思って教室に帰ろうとしたとき、正面から来たいじめグループのひとりが不意打ちで腹に思い切りパンチをしてきた。
それもみぞおち。当然息が詰まってその場に倒れこむ。
相手は笑っていた。そして自分を足蹴にして出て行った。

「なんで俺だけこんなことされなきゃいけないんだ」


当時はいくら考えてもわからなかったが、理由なんてない。彼らにとっていじめとは「気持ちいいもの」「自分がスッとするから」それだけ。本能に従ってやってるだけで、いちいち考えていないのだ。だから他人をいじめられる。動物と同じだ。いや、犬ですらしつければ人間と仲良くできるのだから、いじめをする人間は犬より下だ。

休み時間の間だけ、自分の机の周りに強化プラスチックのバリケードを張りたいと思ったことは一度や二度ではない。いじめられている間、ずっと考えていた。休み時間はとにかく机に突っ伏して、寝たふりをし、目を付けられないようにするのがせめてもの抵抗だった。

しかしそれも長くは続かなかった。
寝ているところをいきなり後ろに回られ、首をゴキッと捻られたこともあるし、ボールを頭にぶつけられるなんてのはしょっちゅうだった。ときには自分ひとりを囲み、数人がかりでバスケットボールをぶつけられた。早く済むように愛想笑いをしているとますますひどくなった。

周りは傍観していた。よくあるいじめの構図だ。他の男子はいじめ集団と一緒になって笑い、女子は「うわー・・かわいそう」と小声で言っていた。もちろん、止めたら次は自分が標的になる。皆、それをわかっているから止めなかった。


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親へいじめの告白


あるとき、とうとう我慢できずに、親にいじめを告白したことがあった。親は怒り、担任に向けていじめを止めるように手紙を一筆書いた。これがまずかった。

翌日、担任が主犯を呼び出した。

帰り、下駄箱で待ち伏せされ、主犯グループのひとりから胸倉をつかまれた。

「てめえコラ…ざけたことしやがって・・!」


そうすると主犯の男子が言った。

「おい、やめとけ!…悪かったな」


正直、待ち伏せの件があって、もういじめがなくなるとは思っていなかった。予想通り、一週間後、いじめが再開された。もう親には言えなかった。何も信じられなくなった。


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バレンタイン


バレンタインの日、実家にイタズラ電話までかけられたことがあった。
女子の声真似をした誰かが

「あの・・○○君にチョコを渡したいので、そこの公園まで来てくれませんか・・」


などとふざけた内容の電話をしてきたのだ。

自分が「は?」と何度も聞くと、突然電話の向こうから

「ギャハハハハハハ!!」


とバカ笑いが聞こえ、電話は切れた。

翌日、学校に行くとある男子が

「お前、昨日、女子から電話かかってこなかった?」


と笑っていた。「知らないよ」と返しておいたものの、意地悪い笑いをしていたことからも、彼が自宅にウソの電話をした犯人であることは明白だった。学校だけではなく、自宅にまでそういう電話をしてくる人間が恐ろしくなった。そこまでするかと。そして「自分だけが我慢すればいい」という考えだけが頭を支配するようになっていった。


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中学校卒業


いじめが原因で自分は「急性胃腸炎」になり、学校を休みがちになった。とうとう体にまで影響が出始めたのだ。明らかにいじめによる精神的にストレスによるものだった。

そうしているうちに出席日数が足りなくなる寸前まで行き、強制的に学校へ行くしかなくなった。これは後々まで尾を引き、大人になってもずっと慢性的な持病になっている。

そんなこんなをくり返した卒業式の日、「今日だけはいじめるの勘弁してやるか」と言われたとき、素直にほっとした。相手に「ありがとう」とまで言ってしまった。傷害相手に礼を言ったのだ。「今日だけは自分をいじめないでくれてありがとう」と。

自分に腹が立った。しかし「これでもういじめられなくなる」と心から喜んだ。


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高校でのいじめ


中学校での暗い過去を背負い、高校へ進学した自分。正直、中学とき代にあれだけの思いをしたんだから、高校に行ってまで同じことは起こらないだろうと思っていた。

しかしそれは甘い考えであったことが後に嫌というほど思い知らされるのだった。

高校に入学して1年目はそれほど嫌な思いはしなかった。だがいじめとまではいかなくとも、またしてもクラス内の不良から暴力を受けることがたびたびあった。

今度は強くなろう。そう思い、多少はやり返していたときもあった。相手からはムカつかれていたが、一過性のもので継続性はなかった。しかし2年に上がり、1年のときのクラスメイトとは離れ離れになったにもかかわらず、夏明けからいじめが始まった。

「またあの地獄を味わわなきゃならないのか・・」


それが率直な感想だった。


経緯はとても不思議だった。

いじめの主犯とは最初、なんとなく普通に話す間柄だった。それが夏休み明け、急に「バカ」呼ばわりされ、驚いているといじめが始まった。

そこでも自分は笑うことでやりすごそうとした。そいつは他の人間にも暴言を吐いたり暴力を振るったりしていたけど、自分にも肉体的に暴力を振るった。

「おいコラ、数学の宿題お前やれや」
「ジュース買ってこいや」


パシリにされた。そう思った。宿題の肩代わりをさせられ、その答えが間違っていると腹を殴られた。

いじめをする人間が狙ってくるのは「腹」。跡が残らないからと判断したのだろう。中学も高校もいじめる人間が狙うのは「腹」だった。

彼らが言っていたのは「腹を殴ったときのリアクションが面白い」から。みぞおちなんか殴られたら、人間は息ができなくなり、その場にうずくまってしまう。これを笑うのがいじめる側なのだ。

人間として最悪の人種だと今でも思っている。ただでさえ胃炎持ちの自分は、胃炎のことを話せばますますいじめがひどくなると思い、そのことは相手に言えなかった。

高校では剣道部に入った。中学までの自分を変えるため、武道を習いだした。だけど何の意味もなかった。相手は不良グループの一員として肉体的にも強く、しょっちゅう喧嘩をしていたから、まともに喧嘩したことはなかったけど、やったとしてもかなうはずはなかった。

あるとき、彼とぶつかったことがあり、中学のときと同様、「あ・・悪い・・!」と言ったにもかかわらず、思い切り頭を殴られた。側にいた同級生も言葉を失った。

いじめられていると、「いかに今日を無事に過ごすか」しか考えなくなる。やり過ごすことしか頭にはなくなる。朝、腹が痛くても何としても「学校に行く」しか選択肢がなかった。

毎日、いじめの相手が学校を休んでくれないかと天に願った。ガラッと教室の引き戸が開けられ、タバコ臭い主犯がクラスに入ってきたときの恐怖感。今でも忘れられない。笑ってれば傷は少しでも軽くなるかと思い、常にニヤニヤすることを覚えた。いじめは収まらなかった。

ようやくいじめが終わったのはそう、中学のときと同じ卒業式の日。またもや「今日は勘弁してやる」の言葉。あのときとまったく同じことが起こった。歴史はくり返した。

卒業式の後、主犯の家にクラスメイトが招かれ、卒業祝いをやるということで集められた。自分もなぜか集められたが、そこで願ったのはひとつだけ。

「神様、頼むから卒業式の今日だけは、何事もなく過ごさせてください」


願いが通じたのか、いじめはなかった。さすがに高校を卒業した身分でいじめるのはもう飽きたのだろう。特別な会話もなく、翌日、何事もなく自分は帰路についた。

これが3年間の高校生活の終わりとなった。


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いじめる側の問題


いじめる側の問題として、家庭に問題がある場合が大半だと思う。親が離婚していたり、家庭内不和、本人が多大なストレスが溜まっており、それをいじめることで晴らそうとする。少なくとも、自分をいじめてきた人間は皆、家庭環境に問題を抱えていた。

中学のときにいじめてきた相手は、両親が不仲で母親に問題があったらしい。高校での相手は、両親が家にほとんどおらず、空き家同然になっていた。学生ひとりがグレるまでにそう時間はかからなかった。周囲に環境は整っていたわけだ。

だけど、それはとても卑怯な行為だ。自分の環境の不和を他人にぶつけていいはずがない。これは少し考えればわかることなのだが、いじめる側は考えない。本能に従うほうが気持ちが良いからだ。そこに「考」の文字はなく、ただ本能的に「ノリ」でやっているだけなのだ。弱い人間を見つけて嬲(なぶ)っていれば、自分を保てる。それがいじめをする人間の精神状態だ。

いじめているグループに属していて、本当はやりたくないのに、いじめないと今度は自分が標的になるからやっているケースもあるだろう。歪んだ仲間意識である。

これを変えるのはほぼ無理だと思う。学校というとても狭い空間の中で行われるいじめは、そこに君臨する者が絶対であり、逆らう者は標的にされる。そこを上からガツンと言える教師がいたり、強制力(警察力)が介入してくればいいのだが、現実はそこまでできないだろう。

いじめをする人間は血も涙もない悪魔と同じだ。そこには人としての理性も何もない。ただ楽しいからいじめをするという、快楽犯罪者にも似た思考を持つ。大人でも、そういった思考の持ち主に同じ空間に何年も一緒にいたらどうだろう。きっと精神的に参ってしまうに違いない。精神的に未熟な少年ならなおさらだ。

自分は、いじめをなくすにはまず家庭からだと思う。いつも両親が言い合いをしている家庭の子は、相手の目を伺うような子に育つ。暴力的にな親に育てられた子は、暴力が日常化しているため、弱い子の気持ちがわからない。たとえばスーパー内などで子どもを怒鳴りつけている母親がいるが、ああいうのは問題外だ。

乱暴な親に育てられた子どもが将来どうなるかはお分かりだろう。子は親を映す鏡である。いじめをなくすにはまず家庭から。この考えを親御さんには持っていてほしいと思う。


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いじめていた人間のその後

余談ではあるが、いじめをしていた人間たちがその後どうなったのかについても触れておきたい。人をいじめるとこういう風になるというのは言い過ぎかもしれないが。

・中学時代、最初に自分をいじめていた男子は卒業とともに地方へ引っ越していった。大学とき代にたまたま近所で顔を合わせる機会があったが、「おっ、元気か…」と一言言っただけで気まずそうに去っていった。

・もう一人は直接いじめに加わってはいなかったが、中学卒業後、高校でも問題を起こし、最終的には暴力団に入ったと風の噂に聞いた。

・いじめグループで体格が良く、全生徒から嫌われていた男も同じく卒業後、暴走族から暴力団へ入った。

・高校時代にいじめてきた男子について、後々聞く機会があった。それによると、彼は中学時代、自分と同じようにいじめを受けており、いわゆる「高校デビュー」だったことが判明した。舐められないように必死に突っ張った結果、彼自身はいじめる側に回ることを選んだのだ。ただ、そんな裏事情は、いじめられた自分にすればどうでもよかった。

その後、彼がどうなったのかは知らない。


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いじめられている君へ

今、まさに学校などでいじめられている人がいるかもしれない。たまたまこのブログを見てくれた人の中にも、明日、死にたいと考えている人がいるかもしれない。いじめ経験後、学校を卒業して20年近く経った自分の言葉が届くかどうかわからないが、少し聞いてほしい。何かの解決の糸口になれば幸いである。


・学校には行くな

わざわざ犯罪が行われている場所に、自分から足を運ぶ必要はない。今はフリースクールや通信教育、大検など、学校に行かなくても教育を受けられるシステムがある。君にもネットや学校で仲の良い友達がいるかもしれない。いじめが起こっている間は
仲の良い友達も、君に安心して話しかけられないかもしれない。

だけど学校を離れたらどうだろう。いじめをする人間がいない状態で仲の良い友達同士が遊んだりすれば、それはそれで心が休まる。いじめに遭っている人でクラスに友達がいる場合は、学校に行かなくなってもときどき会おう。いじめている奴らには会わず、気の合う仲間とだけ会う。これは楽しい。ネットでもいいからどんどん繋がろう。


・「学校へ行かない=逃げじゃない」と知ろう。

むしろ犯罪の地から非難したと考えよう。行かないことは悪いことじゃない。そもそもそんなことを放っておく周りが問題なんだから、君には何も責任はない。


・親に何と言うか

いじめられていることを親に言うのはとても勇気のいることだと思う。言えなかったら手紙でもいい。とにかく第三者にいじめの事実を伝えよう。

「このままだと精神的にやばい。死にたいぐらい嫌だ。」と、学校に行きたくないことを訴えよう。

「何情けないこと言ってるんだ!学校に行け!」


なんていう親がいたら

「学校にこのまま行くと、殺されるかもしれない」


と言おう。

実際、君は学校でいじめの標的になっている。いじめで自殺したり、殺されることもある。そんな犯罪がまかり通ってる場所に行くことはない。親御さんが思慮深い人であれば、君が真剣に話せばわかってくれるはずだ。学校に行かなくても教育を受けられる場はあることも話そう。


・(親御さんへ)「今は耐えろ」などの言葉は最大のタブー

自分もよく言われた。

「ここさえ我慢すれば大丈夫だから」


何を言っているんだと思った。「今」が大事なのに。今、いじめられてるからそこから逃げたいのに「我慢しろ」だって?当時、腹立たしくてしょうがなかった。

また、これも世の親がよく言うことだと思う。

「耐えろ、我慢しろ、社会に出たらそんなもんじゃないぞ。」


この考え方は完全に間違っている。自分はこんなに無責任で放任な言葉はないと思っている。犯罪に耐えることが強い心を作ると思ったら大間違いだ。いじめに耐えて学校を卒業した子はどうなるか。

自分を例に挙げると、社会に出たら困ったことが起きた。

「かつて自分をいじめた人間に近いタイプが職場にいると無条件で動悸がして精神的に参る」


ようになってしまったのだ。

いじめに耐えて成長したなどと言える人は、その人が耐えられるだけの心を持っていたからだ。もちろん、肉体を鍛え、精神的にも強くなった人もいるだろう。しかしそれはその人個人の問題であり、それが我が子にも当てはまると思ったら大間違いだ。

そこには個人差もあるし、万人がいじめに耐えきったからといって、その後の人生において強い心を持った人間になれるはずがないのに、それができると思っている大人が多すぎる。

それができない子もいることをまずわかるべきだ。人には適材適所という言葉があるように、いじめに対する抵抗力や精神力の強さも千差万別なのだ。

入れ物そのものの器が小さいのに、いじめによる精神的苦痛を溢れるほど受けた人間は、その体験が必ずトラウマになり、社会に出ても心に傷を負い、就職しても、いじめた人間と同タイプの人間を無条件で怖がるようになってしまう。自分がそうであるからこそ、同じ体験をしてほしくない。

また、いじめを受けた子どもは、いわゆる「青春時代」を過ごせない。これも自分の経験談だが、いじめから逃げるだけで学生生活が終わってしまっている。つまり学生時代に経験しておくべき「普通のこと」が経験できないのだ。

それを後になって取り戻すこともできるが、できれば、いじめのないクラスで学生時代に青春を謳歌するほうがよっぽどいい。今になって切に思う。

自分は学生時代、いじめから逃げるだけで他のことは何もできなかった。だから大人になってやっと青春を取り戻すことができた。学生時代にこれを経験しておいたら、どんなに楽しかっただろうと今でも悔やんでいる。そういう人がひとりでもいなくなってほしい。

少なくとも、この記事を見てくれている、今、いじめに遭っている人にはそうなってほしくない。

いじめに耐えることは百害あって一利なしだ。

これを世の親御さんたちは心に留めていただきたい。決して軽々しく「今耐えればいい」とか「我慢しろ」と言ってはならない。禁句中の禁句。精神論でいじめが消えれば苦労はない。


・良い会社で働くために、頭の良い大人になろう

はっきり言っておこう。社会に出てもいじめはある。これは紛れもない事実だ。事実、どうしようもない大人を何人か見てきた。

よく親が言うだろう。

「良い会社に勤めたければ、頭の良い学校に行きなさい」


これはある意味当たっているのだ。決してその場の言葉ではないことを知っておこう。親御さんは社会の何たるかを知っているからこそ、君にこの言葉を言う。

それでは「良い学校に行くこと」がなぜ「良い会社」につながるのか。理由を教えよう。

高校や大学に行くと、当然ながら就職活動というものがある。高校卒業後に大学に行く人や、大学卒業後、大学院に進む人もいるが、ここでは就職組について話そう。残念ながら、就職先の求人というものは「上から順に降りてくるもの」なのだ。

つまり、「頭の良い学校」に一番良い求人が来る。そして下に来るころには、良い求人は軒並み、頭の良い学校の人たちで埋め尽くされる。そこから競争が始まっているのだ。

「頭の良い学校に行く」「良い会社に入る」ということはどういうことか。ここでは一点に絞って言わせていただくが、

「いじめグループのような程度の低い人間と一緒の空間にいなくても済む環境に行ける」


ということだ。これは声を大にして言っておきたい。大企業でも派閥争いなり何なりはあるだろうが、分別のついた人間が集まった場所には、学生時代のような卑怯ないじめは発生しない。もっとレベルの高いところで議論したり、仕事の話をするのだ。だからこそ、世の親は我が子に「良い会社に行け」と言う。

何も良い会社に行くことが成功の全てではないのだが、「良い環境」に行くためには何事も勉強しておかないと「賢く生きられない」ということだ。

例えば、君が漫画家になりたいとする。漫画家になるにも勉強は必要だ。画材の知識なり、絵を描く練習をめちゃくちゃしたり、それも勉強だ。漫画家としてデビューするには、自分の作品を世に出さなければいけない。じゃあどうやって世に出すか。その方法を探すのも大切な勉強だ(今はpixivや動画サイトなど、作品発表の場はたくさんあるのであまり悩まないかもしれないが)。

勉強するということは知識を増やし、それを自分の人生に取り入れていくことだ。


・何かひとつでも大好きなこと、楽しいことを見つけて

今でこそ自分はこうやってブログを書いているが、当時はまだパソコンなんてなかったので、日記帳に恨みつらみを書いていた。今から考えると暗いことしてたなあとは思うが、日夜、いじめられるたびに、日記帳に罵詈雑言を書いてビリビリに破り捨てていた。

あと、自分はゲームや漫画やプロレスやオカルトが大好きだったので、それが高じて現在、さまざまな記事を紹介するこのブログを心から楽しんでいる。だから君にも何かひとつ楽しいことがあるはず。それに没頭してほしい。

漫画好きなら漫画、動画好きなら動画、ゲーム好きならゲームと、今ではそういう場所がたくさんある。ネットに逃げ場を見つけることができる。中学のころの自分じゃないが、「逃げるが勝ち」という言葉もある。

戦場では生き残った者が勝ちなのだ。犯罪の温床から逃げることは正しい選択だ。それを覚えておこう。死んでしまったらなんにもならない。生き残ろう。なんとしても。


・「TO BE CONTINUED」の精神

自分もいじめられているときは「死ねば楽になる」ことしか考えていなかった。だけどちょっと思い返した。ここで死んだらゲームができない、漫画が読めないと考え、今、この瞬間を大事に生きようと考えるようになった。

死んで銅像が建って青空にキラッと顔が浮かぶエンディングなんて嫌だろう。漫画の終わりとしてはいいかもしれないが、君のリアル人生がそこで終わるのはダメだ。「TO BE CONTINUED」の精神を持とう。それがひいては君の心を強くしてくれる。

君の人生は君が生きているかぎり、物語は続く。続かせなければならない。カッコイイじゃないか。犯罪の温床となる場所から離れ、自分を生かせる場所をこれからいくらでも見つけることができるなんて。

「自分の好きな場所」にいることは精神的安定もなる。いじめによる精神的被害もけっこう消えるものだ。


・ときが解決してくれることもある

実体験から言うと、「時が解決してくれる」ことは世の中にけっこうあると思う。いじめの記憶は時が経つにつれて薄らいでいくものだ。傷は完全には消えないが、跡になって残る程度にまで回復することはできる。

それもカッコイイ生き方じゃないか。「俺は心に傷を負った漢・・」とか(笑)、そういう考え方で自分をカッコイイ奴だと思うことで、死ななくても大丈夫な心は作られる。何も殴り合いに勝ったとか、そういうことだけで強い心は作られるものではない。

時間が経てば、いじめられた記憶をこうやってブログで書けたりもするのだ。自分の当時の精神状態なら、まずこんなことは書けなかっただろう。「時」が解決してくれた部分も大きいのだ。


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まとめ


自分はいじめの専門家ではありませんが、過去に受けたいじめ体験から

「こうしたらもっと解決に向かったのではないか」
「ここはこうすべきだった」
「いじめはこんなに酷い犯罪行為なんだ」


ということを知ってもらうために、今回の記事を書きました。

いじめを受けて大人になり、30代も半ばになった今だからこそ、書ける精神状態になったのです。これは先ほどの「時が解決してくれる」ことにもつながります。

今、日本は過去に例を見ないくらい、いじめが蔓延している社会だと思います。先が見えない世の中で、大人も余裕がないくらいギスギスしています。学校に通う皆さんもそういう気持ちでいっぱいな人がたくさんいると思います。

ただ言えることは、

人間はひとりじゃない

ということです。お決まりの奇麗ごと言うなと思うかもしれませんが、本当にそうなんです。すみません。上手いこと言えないんで、こういう表現でしか言えないんです。

ただ、今日、この記事を見てくれたあなたと私はもうこれでつながりました。決してひとりじゃないんです。この記事の最後には役立つリンクも入れておきましたので、いじめに関して悩んでいたり、今すぐなんとかしたいと考えている人は見てください。

あなたへのいじめが今すぐにでも終わるように、少しばかりの助力をさせていただいたつもりです。もう自分のように、辛いいじめを受ける人が出るのはごめんだから。

できることはやっておこう。用いられる手段はなんでも使って解決に導こう。


いじめは百害あって一利なしです。


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役立つリンク


ここでは、いじめに関する役立つリンクを紹介しています。自分は残念ながら、学生時代に頼れるものは親や先生以外、何もありませんでしたが、今はこんなにたくさんの人、リンクが助けになってくれます。君はひとりじゃない。いじめに困っている人、誰かに相談したい人、参考にしてください。


朝日新聞デジタル:いじめられている君へ - 教育
いじめ解決法 初期段階での反撃法
いじめ に勝つためのサイト「男のいじめ解決法」 / いじめに遭ったらときどうしたらよいか
いじめから子供を守ろう! ネットワーク
法務省:人権相談
イジメのレベルによって、対処法は違います | いじめ対策総合サイト
いじめを解決する方法 | いじめ対策総合サイト

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