「ノーゲームデー」について考える - 考察・雑記
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「ノーゲームデー」について考える

2015/02/19 編集
考察・雑記
ゲーム コラム




ファミコンコントローラー北海道教育委員会が提唱した「ノーゲームデー」が波紋を呼んでいます。そもそもこの「ノーゲームデー」とはどのようなものなのでしょうか。

「北海道子どもの生活習慣づくり実行委員会」のホームページからの引用によると、ノーゲームデーとは以下のようなものだそうです。

 ★ 毎月第1・第3日曜日を「ノーゲームデー」として設定しました。

 ★ 大人も子どももゲームをしないで、電子メディアへの接触時間を見直す取組です。 

 ★ ゲームをしないで、「家族の団らん」を大切に「体験活動」や「読書活動」に親しみ、学校、家庭、地域における望ましいネット利用に向けたルールづくりの促進を図るものです。  

どさんこアウトメディアプロジェクト ノーゲームデー


これについて、私なりにいろいろ考えてみました。

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確かにゲームのやりすぎはよくない


私自身、ファミコン世代だったのでそれはよくわかります。家でゲームをしているより、外で遊んで活動的になっている子のほうが魅力的に見えましたし、親にもこう言われました。

「そんなにゲームばっかりやってるとバカになるよ!」

このセリフ、一度は言われたことがあるという人も多いのではないでしょうか。ゲームをやりすぎると勉強がおろそかになって、成績が落ちて将来苦労する…こんなイメージを持っていた大人は多いと思います。

やめさせる方法は親次第


じゃあ自分の子どもがゲームをやっていたとして、上手くやめさせる方法はないものかと悩む親御さんは、以下の例を見てください。

例1:「ゲームの時間は30分!」と決め、時間が来たら強制的に止めさせる

例2:「そこのポイントまで行ったら止め」と決め、RPGならセーブポイント、アクションならステージクリアまで待つ


どちらが「イラッ」と来ないかは明白ですよね。もちろん例2です。これは実際、私が子どものとき、両親からやられてイラッと来たとき、どちらが精神的にイラつかないかを大人になって思い出してみたことです。

ある一定のポイントまで行ってからやめさせるのと、楽しんでいるのにいきなり電源を切られるのと、どちらが精神的に子どもがイラつかないでしょうか。大人だってそうですよね。

お父さんが楽しんでみているテレビを「はい30分経ったから」っていきなりチャンネルを無断で変えたりしたら怒られるでしょう。お母さんが楽しんで見ている本を時間が来たら無条件で取り上げたら誰だって怒ります。それと同じです。

いま、私には甥っ子がいますが、ときどき家に来てゲームやるわけですよ。で、ゲームをやりすぎているなと感じたら止めさせるわけですが、そんなとき、私はゲーム以外の方面に甥っ子の興味を向かせます。

お絵かき2「一緒にこっちでトランプやろうよ!」

「これから犬の散歩に行くけど、いっしょに来る?」

「さーて、お絵かきやろうかなー。いっしょにやる?」

こうすると、別の方面に興味が湧き、「やるやる!」と来たりします。「その前にゲームの電源切ってから!」と言うと「わかった!」って言ってくれたりもします。なかなか止めないときには、ゲーム以外の面白いことを大人が提示して、そちらに上手く誘導するんです。

要は「親のしつけ」次第なんですよね。

ゲームはコミュニケーションツールである


私は、ノーゲームデーは「提唱」するだけで無理に決めつけるものではないと思っています。だって見てください。街中にはスマホがあふれ、ふと周りを見ればLINEはやってるわ、アプリはやってるわ、家に帰ればパソコンはあるわ、ゲーム機はあるわ。この環境はもはや時代の流れともいえるので、これを変えていこうとするのはちょっと難しいと思うんです。

このチームがノーゲームデーの代わりに何を提唱したかというと

「家族の団らん」を大切に「体験活動」や「読書活動」


「体験活動」の内容はというと、スキーや豆まき体験、ものづくり体験など。ただ、休日を使ってこういう活動に参加することが面倒だなと思う子もいるでしょう。

ゲームを親子でやって、わいわいコミュニケーションを取る。これって家族団らんになりませんか?

ゲームを親子で一緒にやって、それでコミュニケーションが取れて家族団らんになるなら、私は家族内にゲームをどんどん取り入れるべきだし、止めさせることはないと思います。要はコミュニケーション。喋りながらとか、ゲームをしながら日ごろのことを話したりする。私がそうでしたが、「ゲームをしながら」だったら話せることもあると思うんです。

「読書=小説」?ファミコン世代の私の時代を例に取る


私は子どものころ、読書はまあ普通にしていましたが、新聞は大嫌いでした。なぜなら字を書いてあるだけだから。で、読書も「ズッコケ三人組」とか児童書メインで読んでいて、大人になったらオカルト本やプロレス本が大好きになりました。あとは実用書ですね。心理学とか営業マンの極意とか、ああいう本です。それを読書のうちに入れるかどうかっていうことも大切な問題だと思うんです。

本どうも

「読書=小説」という図式


があるように見えてならないんですよね。昔から言われてましたもん。「マンガ読むより小説読みなさい」って。物語性のあるものを読まなければ読書じゃないみたいな。

私は、興味のある本は何でも読めばいいんじゃないかなと思うんですよ。UFO本とか心霊本とか、ゲームの攻略本だっていいんですよ。私は攻略本に載ってるデータベース見てるだけで楽しめる人間ですから。それが元になって仕事でもデータ入力が得意になったり、データを分析したり作ったりすることが大好きになりました。

自分が読んで「ためになった!」って感じることができたら、それは立派な読書なんですよね。

前置きが長くなりましたが、ファミコン世代だった私は、ゲームばかりやっていたわけではなく、普通に外で友だちと遊んだり、木登りをしたり、虫取りをしたり、かけっこや缶蹴りをしたりしていました。ケンカもしました。いまの子より体を使っていたと思います。

それがどうでしょう。大人になるにつれてゲームの時間は長くなり、体は使わなくなり、RPGやアクションなど、ゲーム漬けの生活を送ることになりました。しかし、これは自制できなかった私の自己責任です。

受験勉強時代、私はゲームのおかげで息抜きができました。1日8時間勉強したときもありましたが、同じぐらいゲームをやってました。一浪してなんとか大学に入り、ゲーム漬けの生活を送っていましたが卒業もできました。

このブログで好きなゲームの記事も書けるようになりました。過去にはスーパーファミコンやPCのRPGツクールでゲームを作ったりもしていました。

人間、好きなことがひとつでもあれば、生きていく希望になるもんです。

遊び場が少ないのも問題


そもそも、現代では「遊び場」が少ないのが現状です。私の子ども時代には、公園にさまざまな遊具がありましたが、現代では危ないという理由で取り外されたりしています。

大人が子どもの遊び場を奪った結果、ゲームばかりするようになったから、今度はゲームをやめようという方向に持っていくのは間違っていると思います。

駆け抜ける子ども


ブランコに乗ってジャンプ失敗して尻から思い切り落ちるとか、あのグルグル球体をコーヒーカップみたいに超高速で回して友だち同士で目を回しあったり、カンケリしてて近くの空き地に入っちゃって、空き地を囲っている有刺鉄線をくぐって傷つきながらも取りに行ったりとか、ブロック塀の上に登ってそこから飛び降りたとか、いまの時代じゃできないでしょう。

だったら公園にDSを持ち寄ってみんなでモンハンやったり、妖怪ウォッチやったりするのはむしろ自然な流れだと思っちゃうんですよね。外でやるゲームもいいじゃないですか。

外で陽に当たりながらゲームやってるんですから、こもってるより健康的じゃないかとさえ思ってしまいます。

体験学習をすれば子どもはいくらかでもマトモになると思うなら大間違いです。こういうのは習慣化が大事なのであって、1回やったからどうだっていうもんでもないです。すぐに忘れます。むしろ家庭での教育をしっかりやるように啓発するとか、そっち方面ですよ。大切なのは。

ゲームの時間を決めたり、外で遊ばせるようにするのは親の役目であって、お役所が決めることじゃないんですよね。

私だったら、そういう活動に参加したとしても「早く終わんないかな」と思いますし、家に帰ったら親の目盗んで隠れてゲームやります。

だったら先にも書いたように、ゲーム機や携帯から「離す」のではなく、「上手に付き合っていく方法」を考えたほうが、よほど建設的じゃないかなと思うんですよね。

要は時間の振り分けかたを親が子どもにどう教えるかだと思います。

スマホばかり見ているという問題はあるが、最後にゲーマーとして一言


スマホを操作する子ども街中を見てみると、たとえば席に座っているのに、家族がスマホばかり見ていて話していない光景なんかを見たことがあります。ありゃマズイなと感じました。一種異様な雰囲気ですからね。

この運動はそういった現状に対して「なんとかしよう」と考えられたものであることは百も承知です。実際、プロジェクトの「Action3」には「電子メディアの使いすぎを意識化するためのチェックシート」「学校・家庭・地域におけるルールづくりが促進されるためのルールづくりのポイント」など、細かい点が設けられています。単にゲームをやめて外に出ようという運動ではありません。

messeage.pdf


、「ノーゲーム」っていう名称にするから反発や波紋が広がっているんじゃないかなと思うんです。「離れる」というちょっと柔らかい単語を使った「リーブゲームデー」とか、「アウトドアデー」とかにすればよかったのにって。


ただ、ゲーマーとして一言だけ、どうしても言わせてほしいことがあります。

私にとってゲームとは人生を共に歩んできた友であり、時にはコミュニケーションツールにもなり、時にはじっくりどっぷり浸かることのできる、なくてはならない大切なツールなのです。

関連リンク


どさんこアウトメディアプロジェクト ノーゲームデー
北海道教育委員会が毎月第1・第3日曜日を「ノーゲームデー」とする呼びかけ - 4Gamer.net
「ノーゲームデー」を制定する前にほんとうに必要なこと | Credo
【海外ゲーマーの声】北海道教委の「ノーゲームデー」―海外からは非難の声も | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト
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