武藤敬司選手引退 いちプロレスファンのありすぎる思い出 - NOAH
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武藤敬司選手引退 いちプロレスファンのありすぎる思い出

2023/02/22 編集
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2023年2月21日、ひとつの時代が終わりました。

武藤敬司 引退


闘魂三銃士として、蝶野正洋、橋本真也とともに時代を走り抜けてきた稀代の天才はついに最終章を迎えました。

僕も内藤選手と同じく、中学生の頃にプロレスにハマりました。そのきっかけはまぎれもなく武藤選手でした。

中学生時代、まだ僕が「プロレス」という言葉を知らなかったころ、テレビにひとりの選手が映っていました。それが武藤敬司という選手でした。

僕が見始めたころはまだ土曜日の16時00分からワールドプロレスリングが放送していたときで、そこで見ていた記憶があります。

そのころの武藤選手はすでにオレンジパンツで活躍していました。

フラッシングエルボー、スペースローリングエルボー、ムーンサルトプレスといった数々の美麗技に僕はあっという間にファンになっていきました。

テレビで武藤選手が映っていれば絶対に見たし、プロレスゲームで選手を選ぶときもそう。ファイプロや闘魂列伝では、買ったらまず最初に使う選手は武藤敬司でした。

ゲーム内でなんとか武藤選手のムーブを再現しようとして、シュミット式バックブリーカーからのラウンディングボディプレスというあの黄金コースを何度もくり返し再現していたものです。

90年代後半からの武藤敬司には一時期飽きが来ていた


そんな僕ですが、90年代後半の、いわゆる「NWOブーム」のころの武藤選手には一時期、飽きが来ていました。たしかそのころは橋本選手や佐々木選手といったパワーファイターに傾倒していた時期であり、武藤選手のようなグラウンド中心のレスリングを行う選手はあまり好きではなくなっていった時期があったんです。

実際、90年代後半の武藤選手といえばドラゴンスクリューからの足四の字、そしてムーンサルトプレスといった流れが一般的になったこともあり、たしかにすごいんですが、お決まりのムーブに少し僕自身、飽きが来ていたことも事実です。そして当時、僕はこう思っていました。

「武藤の2000年代が想像できない。もしかしたらこのままフェードアウトするのかもな…」

なんてとても失礼なことを思っていた大学生時代がありました。

シャイニング・ウィザードがすべてを変えた


そんな折、武藤選手は99年にWCWへ旅立ちます。そこでも僕は「ああ、もう新日本に居場所がないからアメリカ行ったんだなあ」ぐらいの認識でしかありませんでした。

しかし、2001年に武藤敬司が突如として大谷晋二郎と一緒に復帰してきたときは度肝を抜かれました。

「武藤がスキンヘッドになってる!!」

そう、「もう終わりかな」と思っていた武藤選手がイメージを一新し、白と黒を基調としたロングタイツに姿を変え、日本に凱旋帰国してきたのです。

そこからの破竹の活躍はもうみなさんご存知のとおりです。特にひとつの技の開発が武藤選手のプロレスラーとしての寿命を伸ばしたと思っています。それが

シャイニング・ウィザード

片膝立ちの相手に飛び乗り、膝を顔面にたたき込むという危険技。初期は本当に膝を当てていましたが、そのうちに改良して太ももの内側を当てる技に変化しました。
そのうち、片膝立ちのあの体勢は
「シャイニング式」と呼ばれるようになりました。

2001年、全日本プロレスに参戦したときの相手、太陽ケア選手との対戦で編み出したと言われるこの技。当時のワールドプロレスリングで一般公募で技名が決まったというお知らせをテレビで見た記憶があります。

それから武藤選手は全日本プロレスの社長に就任。あの入場曲「アウトブレイク」は僕もCDがすり切れるほど聞いた記憶があります。90年代、終わりかと思っていた武藤敬司は新技をひっさげてますます狂い咲きし始めました。正直、これは僕はまったく想像していなかったことでした。

ドラゴンスクリューと足四の字というゴールデンコンボがあるとはいえ、あのムーブに少々飽きてきていた僕がハッと目を覚まされるような技。それがシャイニング・ウィザードでした。

突然発射して相手を倒しに行くあの打撃技。それまで関節技と飛び技が主体だった武藤選手に「打撃」の要素が加わったことで、武藤選手はますます光り輝くレスラーへと変貌していきます。

ノアへの入団、そして引退


そうなんです。当時、武藤選手は全日本プロレスから離脱し、レッスルワンを立ち上げましたが、僕はちょうどそのころ新日本プロレスをよく見ていて、むしろ武藤敬司といえば「全日本プロレス」というイメージが僕の中で定着していた時期でもあり、レッスルワンのあたりはほとんど見ていませんでした。

そんな中、武藤選手は2021年にプロレスリングノアに入団することを発表。
僕はこの発表にとても驚きました。と同時に、僕が勝手に思ってることがあります。

武藤選手がなぜノアに入団したのか。もちろん団体の規模が大きくなってきて安定してきたということもあるでしょうが、僕は三沢光晴選手の思いを背負って入団したのではないかと思ってます。そう、プロレスリング・ノアの創始者であり、2009年に亡くなった三沢社長の思い。

ずっと恋人のようだったと言ってきた武藤選手は、自分自身の最後の団体にライバルであった三沢光晴のリングを選んだのではないでしょうか。

事実、引退試合においては橋本真也、三沢社長の思いも背負ってられたらいいなぁなんて思ってるよと発言したように、志半ばで倒れた2人の盟友の思いも背負って立ったリングだったと思います。

橋本、三沢の思いも背負って


事実、今日の試合では橋本の袈裟斬りチョップにDDT、そして三沢の必殺技であるエメラルド・フロウジョンも出しました。あの瞬間、みんな涙したと思います。

ノアに入ってからというもの、GHCヘビー級王座を取ってグランドスラムを達成したり、引退ロードにおいては清宮選手にシャイニング・ウィザードを伝授したりと、入団から1年ちょっとで八面六臂の活躍を見せました。

入団翌年に引退の発表をするわけですが、その1年間の活躍はこれまでの武藤選手のプロレス人生のすべてが凝縮されているような、そんな1年間だったと思います。

そしてついに2月21日。武藤敬司は引退試合を迎えました。相手は同じく相手は僕と同じく学生のころに武藤敬司を見てプロレスファンになり、そしてプロレスラーになった内藤哲也。かつて新日本プロレスのドーム大会で何も出来ずに泣いて帰った彼が最後の相手となったわけです。

引退試合のようすなどについては他の記事で思い切りたくさん書かれているので、ここでは詳細は書きませんが、素晴らしい引退試合でした。これまでの全入場曲を流して最後にホールド・アウトで入場してきた武藤さん、ムーンサルト以外、全部の技を出した武藤さん、10カウントゴングもない、ボーナストラックありのサプライズありの、なんだかわちゃわちゃしたまま終わっていった武藤さんらしい引退興行でした。

本当にありがとう武藤敬司、本当にありがとうプロレスLOVE。



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