初めてファミコンを買ってもらったあの日、『スーパーマリオブラザーズ』がすべてを変えた

1985年。それは僕が小学校2年生のとき。あるモノがクラス中の話題となった。
ファミリーコンピュータ。通称”ファミコン”である。
売上台数は日本国内だけで1,935万台。全世界を合わせると1億台を突破した。
カセットを入れるだけでゲームが遊べる。この「おもちゃ」は小学生の僕たちにとって、あっという間にクラスの話題の中心になった。
「みんな持ってるから買って」が常套句だった
僕は当時、学校から帰ってきて、泣きながら親に「ファミコンを買ってくれ」と泣きついたことがある。
「みんな持ってるから買って!買って!」
そう言ってダダをこねまくったことは、いまでもハッキリと覚えている。しかし、子どもの言う「みんな」はアテにならないことは、世間の親御さんならよくご存知だと思う。
「みんな=せいぜい2~3人」。子どもの世界などそんなものだ。実際、発売当時でクラスでファミコンを持っていたクラスメイトなど、2~3人しかいなかったと思う。
僕からファミコンをおねだりされた母親のあの困ったような顔。いま考えると大変申し訳ないことをしたなあと反省しきりだ。なにもあそこまでわめかなくても…とあの頃の自分を怒ってやりたい。
発売当時のファミコン本体の価格は14,800円。そしてカセットのスーパーマリオブラザーズは4,900円。イマドキのゲーム機本体とソフトをセットで買うよりはかなり安い価格帯だが、当時でもこれは安い買い物ではない。しかもまだ「テレビゲーム」というものが世の中にない時代だ。
親世代にとってこれは高すぎる「子どものおもちゃ」だったのである。だが、当時の僕たちにとって、ファミコンを持っているかどうかが、いまで言うクラスカーストの順位を決めるモノだったような気がするのだ。これは決して大げさな表現ではなく、
「○○くん(ちゃん)の家にファミコンやりに行こうぜ!」
というのがうちのクラスでは当たり前になっていた。
当時はファミコンのある友だちの家に集まる図式になっていたので、こうなるのは必然だったのだ。
僕もご多分に漏れず、クラスの友だちからファミコンの自慢話でもされたのか、それとも友だちの家に遊びに行ったとき、あまりの衝撃に欲しくなったのか。はっきりと記憶はしていないが、おそらく「羨ましい」気持ちしかなかったのだろう。
ファミコンが出た当時、我々の親御さんだった世代の方々は子どもたちのこうした「おねだり」に頭を悩ませたことと思う。それだけこの「おもちゃ」は子どもたちの心を一気に鷲掴みにした。
ついに「ファミコン」が家にやって来た
僕が泣きながら母親にファミコンを買ってくれと頼みこんだとき、母親はちょうど会社終わりの父親から帰宅の電話を受けている最中だったと記憶している。
「どうする?買ってあげる?」
そんな言葉が母親の口から聞こえてきたのは覚えている。僕の記憶では、その日は土曜日で学校が半日で終了。翌日は日曜日で学校は休みだ。
ということは、土曜日にファミコンを買ってもらえば日曜日はたっぷり遊べる。そんな策略が働いたのかもしれない。あのときのねだり方はいま考えても「泣き叫ぶ」ぐらいだったので、あれは母親に多大な迷惑をかけたと思う。
その日の夜。なんと父親がファミコンを買って帰ってきてくれた。ソフトはもちろん、当時、大流行していた「スーパーマリオブラザーズ」である。
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「スーパーマリオブラザーズ」との出会いが僕のゲーム人生の始まりだったと言っても過言ではない。
父親も「ファミコン」のウワサぐらいは耳に入っていたと思う。なにせ、それまでゲームセンターでしか遊べなかったゲームが家庭にやって来たのだから。
父親に当時の話を聞くと、世間ではまだまだ「ゲーム=ゲームセンター」の時代であり、インベーダーゲームや麻雀、ギャラクシアンやゼビウスなどをゲームセンターでプレイしたことがあるという話を聞いた。ファミコンはそれらが家庭で遊べるとあって、爆発的なヒットを叩き出すことになる。
1983年に全国のゲームセンターに旋風を巻き起こしたシューティングの雄「ゼビウス」。管理人の父もプレイしていた。
話を戻すが、スーパーマリオブラザーズ(以下:スーマリ)を買ってもらった僕は夢中になって遊びまくった。当時はテレビなんて一家に一台の時代。いまのようにパソコンもなければ、自分の部屋にテレビなんて夢のまた夢の時代だった。そんなときにあんな面白いものがあったら、夜遅くまで遊んでしまうのは仕方のないことだ。
僕には2つ年下の弟がいるが、弟も当時は大喜びで兄弟でファミコンのコントローラーを奪い合ってプレイしていたと思う。ただ、多くのファミコンソフトには「2人プレイ」モードが搭載されていた。これは喜ばしいシステムだった。
当時の家庭はきょうだいがいる家庭が多く、コントローラーの奪い合いが発生する確率を極限まで下げてくれるこのシステムは僕らにとっては嬉しかった。親にとってはプレイ時間が2人分伸びることになるため、賛否両論だったかもしれないが(笑)。
ファミコンのコントローラーがデフォルトで2つあるのは嬉しかった。
購入日の夜と翌日早朝に「スーマリ」をプレイして怒られた思い出
とにかく、スーマリを買ってもらった夜、弟はさすがに先に寝てしまい、僕だけがファミコンに夢中になっていた。たしか夜10時ぐらいまでスーマリをプレイしていたと思うが、そんな僕に母親が
「もう寝なさい!明日は日曜なんだからまたできるでしょ!」と怒られた。
しぶしぶファミコンの電源を切った僕だったが、夜、寝つけるわけがない。もうワクワク感のほうが勝り、その日の夜はあまり寝られなかった。
目が覚めると、外が薄明るかった。僕はまだ眠い目をこすりながらウトウトと起き、時計を見る。時間は朝4時。
二段ベッドの上を見ると弟はまだ寝ている。チャンスだ。僕は親がまだ起きてこないことを確認し、テレビの前に置いてあったファミコンのスイッチを静かに入れた。
テレビに映るスーマリのタイトル画面は、締め切ったカーテンから差し込む朝日の光に照らされて、なんだか幻想的な世界に僕を連れて行ってくれるような気さえした。僕は前日の夜と同じく、夢中になってプレイしていた。
僕のファミコンのボタンを押す音、もしくはテレビから静かに流れるゲーム音に気づいたのだろう。母親が起きてきて
「こんな朝からファミコンやってるの!?」とまた怒られた。
時計を見ると、朝6時すぎになっていた。僕は夢中になっているうちに2時間もスーマリをプレイしていたらしい(笑)。結局それからは学校から帰ってきたらまず宿題をしてから弟とファミコンをして外で遊び、また帰ってきてからファミコン…というループに身を置くことになる。
さすがに両親もリビングのテレビを子どもたちに占拠されるのを恐れたのか、しばらくして子ども部屋には小さな14インチのブラウン管テレビが設置されることとなった。これで僕らは思うぞんぶんテレビを見たり、ファミコンをプレイできるようになった。
その頃になると父親が帰宅してから、毎日ファミコンをプレイするようになり、僕らは父親がファミコンをしている間はプレイできず、父親のプレイを後ろから見ていたものである。
ただ、父がプレイするゲームといえばシミュレーションものが多く、「ファミコンウォーズ」や「信長の野望 全国版」だった(最近、年老いた父にファミコンウォーズのことを言っても「そんなゲームはプレイした記憶がない」と言われたのはショックだったが…)。子ども心に
「こんなのなにが面白いんだろう」
と思っていたものだが、自分が大人になるとこうしたシミュレーションゲームに進んで手を出したのだから、人生とは面白いものである。
父がよくプレイしていた「ファミコンウォーズ」と「信長の野望全国版」。信長に関しては、父はいまでもたまにスマホ版の「武将風雲録」をプレイしている。
「スーパーマリオブラザーズ」の魅力は「独特のジャンプ」と「達成感」にあったと思う
もはや語りつくされた感のあるこのゲームだが、当時、小学生だった僕にとって、このゲームに触れて最初に思ったのは「ジャンプの気持ちよさ」である。
ボタンの押し具合によってマリオのジャンプ力が変わり、十字キーとの組み合わせによって滞空時間が変わる。基本的には敵を踏みつけて右に進むだけのゲームだ。それなのにジャンプを何度もしているうちに、だんだんと気持ちよくなってくる。不思議な中毒性のあるゲームだった。
キノコを取って巨大化し、一度までなら敵に触れてもOKだが、穴に落ちると1機失う。ファイアフラワーを取って遠距離攻撃ができるファイアボールを投げることができ、スターを取ると無敵になる。
この3つのシステムがうまく機能しあい、絶妙なゲームバランスを演出していたと思う。全国の子どもたちだけではなく、大人までもを一気にハマらせたファミコンゲームは後にも先にも「スーマリ」だけかもしれない。
うちの母親はゲームをしない人で、マリオもほんの少しだけ触れたあとはほとんどプレイしていた記憶がない。だが、中には妙にうまい友だちの母親などがいたものである。
実際、僕が当時住んでいたマンションにいた同じ小学校の友だちのKちゃんの母親などは、僕がKちゃんの家に遊びに行くと、いつも「スーマリ」と「4人打ち麻雀」をプレイしていた。
Kちゃんの母親がいつもプレイしていた「4人打ち麻雀」。こうした大人向けのソフトも同時に提供していたからこそ、子どもの「親」がハマったのだ。
そのKちゃんの母親が初めて「スーマリ」の8-4に行き、Kちゃんの家でたしかスーマリをクリアしたような覚えがあるのだが、定かではない。ワープゾーンを駆使していったことは覚えているのだが…。
子どもたちを「テレビゲーム」に引きこんだ「スーマリ」の功績は大きい
とにもかくにも、1980年代を生きた子どもたちは、そのほとんが「ファミコン」と「スーマリ」に触れていたと思う。ここから「家庭用ゲーム」という言葉が誕生し、のちのゲーム界の発展に大きく寄与する礎となったことは揺るぎない事実だろう。「スーマリ」以前にもソフトは何本か発売されていたが、全国の家庭にファミコンを行き渡らせる決定打となったのは、間違いなく「スーマリ」だと思う。
2020年3月で35周年を迎えた「スーパーマリオブラザーズ」
僕の心をとらえて離さなかった「スーマリ」は2020年に35周年を迎えた。そして2023年5月には1億ドルの制作費をかけた「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」が公開された。興行収入は公開一週間で早くも10億ドルを突破している。
数多くの人々をとりこにした「スーパーマリオブラザーズ」はゲーム界の歴史に不滅の足跡を刻んだ。その革新的なゲームプレイと愛すべきキャラクターたちは、世代を超えて多くの人々の心を魅了しつづけている。
次の数十年にわたり、スーパーマリオブラザーズはさらなる飛躍を遂げることだろう。新しい技術の進歩により、より没入感のあるゲーム体験が提供されるかもしれない。あのころ、朝4時からプレイする欲求に勝てなかった僕のように。
すでに多くのマリオゲームではマルチプレイが当たり前となっている。コントローラーを2つ持ってプレイしたあのころから比べ、友人や家族と協力して冒険に挑むことができるだけでなく、世界中のプレイヤーと対戦することも可能になった。これからもマリオはオンラインプレイの普及により、新たな競争の舞台が広がっていくに違いない。
しかし、進化の中で大切なのは、スーパーマリオブラザーズが持つ「楽しむ」という根本的な要素である。ゲームのテクノロジーが進歩しても、プレイヤーが心から楽しめる環境が重要だ。
「ジャンプ」と「踏みつけ」というシンプルで奥深いゲーム性はこれからも継続されていくだろうし、ユニークな世界観は未来の作品でも必ず受けつがれることと思う。
小学2年生だった僕は、スーパーマリオブラザーズがここまで続く作品になるなんて、当時は思ってもいなかった。
あれから35年以上が経ち、僕も大人になったが、マリオの世界はこれからも広がりつづけ、プレイヤーは驚きと喜びに満ちた冒険に挑んでいくことだろう。
関連リンク
▶スーパーマリオブラザーズ | 任天堂
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